炎天下、校庭で練習に励む野球部が、懸命に声を張り上げていた。
時々、吹奏楽部の合奏も遠くで聞こえる。どこかで耳にした覚えがある旋律だったけれど、毎回同じ部分で演奏が止まるので、頭の隅でもやもやしたまま、曲名が思い出せない。彼も今頃トランペットを吹いているのだろうか、と思う。このメロディのどこかに、彼の奏でている音がある。そのことに気がついて、胸がつまるような気がした。
そろそろ午後5時を回る頃だった。陽はまだまだ眩しく照っていて、光を通し木々の葉がきらきら光って見える。開け放った窓から下を眺めると、数人が木陰で涼んでいた。
教室には、わたし一人しかいない。昼過ぎまでは、他に四人くらいいて、熱心に文化祭の出店準備をしていたけれど、予定があるというのでみんな帰ってしまった。たまたまそこに居合わせたわたしは、二者面談以外に特に用事もなかったので、彼女達の仕事を引き継ぎ、それから黙々と店看板に絵具をぬっている。校舎はしん、と静まり返り、夏の音がそこかしこにはじけていた。
文字部分の二度塗りを終えると、わたしは筆をおいて、立ち上がった。制服に絵具がついていないか、スカートやブラウスをよく確認する。ぬいでいた上靴もはいて、流しでパレットや水入れを洗って教室の窓際に干すと、荷物を持って進路相談室に向かった。
わたしが最後の二者面談だった。ノックをして扉を開けると、先生は少し疲れた様子で、コーヒーをすすっていた。部屋の隅で、年期の入った扇風機が弱弱しく回っている。ホワイトボードに無秩序に貼られた大学ポスターや学外模試の告知が、風に吹かれて乾いた音を立てた。先生は、わたしに気づくと、「来たか」、と椅子をすすめた。そして、定期考査や前に受けた模試の結果と、わたしの進路希望調査票を見比べながら、「うーん」とうなり、無精ひげの生えたあごをかりかり掻いた。
「橘内なら、別の学校も狙えると思うなあ」
「別の学校ですか」
わたしは繰り返した。
「そう、もうちょっとがんばらないといけないけど。県外は考えてないの?」
「あんまり…考えたことないです」
「うん、まあ、橘内がこの大学でいいなら、構わないんだけどね。でも、選択肢が多いことに越したことはないじゃない?こことか、あと、こことか、いい大学だよ」
そう言って、先生は大学パンフレットの何冊かを渡してきた。ぺらぺらとめくってみると、英語教育に力を入れたカリキュラム、より理解を深められる少人数授業、といった言葉が並んでいる。
「どうかな」
先生は言った。
正直に言うと、来年の今頃には受験生なのだと考えても、実感があまりなかった。友達の何人かはオープンキャンパスに行って、進路を見据え塾にも通いだしている。彼女達の様子を見て、わたしも真剣に将来を考えなければ、と思いはするけれど、結局そこで立ち止まったままなのだ。いま通っているこの高校も、両親の母校ということ、親友が通うということで進学を決めたし、その決定をするまでにも、長い間ずるずる悩んだ。しかも、最終的にそのきっかけをくれたのは親友で、彼女が「一緒の学校に行きたい」と強く声を掛けてきたからだった。
彼は、どうするんだろう。ふと思った。
話したことは、数えられるくらいしかない。彼とは中学の同級生だったけれど、彼がわたしの名前を覚えてくれているのかさえもわからなかった。一度、席が隣になり、週直をふたりで担当することになった時、数回交わした些細な言葉を、わたしはいまだに大事に胸に抱え込んでいる。
我ながら、いじましいとは思う。何もせずにこのままでいいと言い訳をして、それなのに、いつまでも気持ちを捨てきれない。同じ高校に通えることを知った時も、ほんのわずかな可能性に期待してしまった自分がいた。ろくに行動しないのに、何かを望むことだけは一丁前なのだ。あの時の浮ついた自分を思い出して、わたしは情けなくて笑ってしまう。蓋を開けてみれば、一年、そして二年現在と同じクラスにはなれなかったし、共通授業でも接点はない。三年は志望大学レベルごとにクラスが編成されるので、来年も同じにはならないと思う。彼はきっと、難関大学志望だろうから。
もしかしたら違う高校だったほうが、ずっとよかったのかもしれない。先生が、ここに行くためにはあと何点必要だ、とか、今度の模試は受けたほうがいいね、とか言うのを聞きながら、わたしは思った。こうして、そしてこのまま、ずるずる気持ちにけりをつけられずにいるよりは。勿論、彼のことだけが選択基準なのではけしてないけれど。
ないけれど。
「橘内?」
つらつらおすすめの大学名をあげていた先生の声が心配そうな調子に変わった、その瞬間だった。ああ、ともうひとりの自分がため息をつく。けれど、もう止められなかった。わけもわからないままに、涙がぼろぼろとこぼれてくる。泣き止まなきゃと思うのに、そう思うと余計にあふれてくる。
ちょっとどうした橘内、と動揺したらしい先生が、ティッシュ、ティッシュどこだ、と散らかった机の上をかきわける。ばらばらと資料やファイルが机から落ちて、そこで堰を切ったように泣き声が出た。胸がぎゅうっと潰れそうだ。わたしは手のひらで目をおさえる。見たくない。
変わった様子に気が付いたのか、隣の個室から別の先生が来て、「どうしたの、何か辛いことでもあったの」とききながら、ハンカチをくれた。わたしは、貰ったハンカチで目をおおったまま、大丈夫ですすみません、と答える。大丈夫です、自分でもよく分からなくて。その、かすれた声を聞きながら、見たくない、見たくないと頭の中で何度も繰り返した。何も見たくない。
*
夏休みがはじまって間もなく、彼の姿を見た。
陽炎がゆらゆら立ち上るほどの暑さだった。真っ青な空に入道雲がわきあがり、ハンカチで汗をぬぐいながら、わたしは電車が通り過ぎるのを待っていた。かんかんかん、と無機質な音が繰り返し響くのにまざって、七日の命を生きる油蝉が張り合うように鳴いている。
遮断機の向こう、楽器ケースを抱えた彼は、白いサマーセーターを着た女の人と楽しそうに話していた。女の人も、手に楽器ケースを持っている。すらっと背が高く、わずかな影に際立って、遠目からでも色白できれいな人だと分かった。彼の顔を、気付かれないようにそっとうかがう。彼の、その女の人に向けた整った涼しげな顔が、くしゃっと人懐っこくくずれて、突然いつもよりずっと幼い表情になった。
夏の喧騒が、一瞬遠のいた気がした。
*
合奏が、かすかに聞こえてくる。演奏は、相変わらず同じところでとまってしまい、わたしは曲名を思い出せない。夏が終わるまでに、思い出せるだろうか。最後まで聴けるだろうか。夏の一日が終わっていく。電車も来ないのに、踏切の前で待ちぼうけをしたままで。
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Amazing grace how sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found,
Was blind but now I see.……
引っ越して一ヶ月、いまだ段ボールが積まれているマンションの一室のポストに、水木の結婚式の招待状は入っていた。職場の接待の帰りで、アルコールで頭が痛んでいたので、はじめ「結婚」の二文字に理解が追いつかなかったのも、無理はなかった。連日の残業に疲れがたまっていたのか、酔いの回りもいつもより早かった。
手に取ってみると、シンプルだが細部までこだわりが感じられる、しゃれた招待状だった。ほのかに花のかおりがした。水木はこういったものに無頓着だったので、きっと彼女の名前の隣に並んだ男性によるものなのだろうと思った。すみに、細長い癖の強い字で、ひさしぶりに会いたいです、と書き添えられている。ブラウスとストッキングを脱ぎ、Tシャツ一枚に着替えて、洗面所で化粧を落としながら、わたしはひとつひとつの言葉をゆっくりと咀嚼した。
水木とは大学のサークルの後輩で、2回生の夏には意識するようになっていた。何でもそつなくこなすように見えて、その実かなり不器用な水木を、わたしはとても大切に思った。本人は「おばあちゃんみたいじゃないですか」と嫌がったが、笑ったときに出来る頬のしわもすきだった。からかうと負けじと言い返してきて、ふとむきになっている自分がおかしくなったらしく、もう終わりです、とはずかしそうに笑う。それはまるで太陽のようにまぶしく、花が咲いたみたいにきらきらかがやいて、次の瞬間には、わたしはやっぱり水木がすきなのだと、痛いほどに実感するのだった。
自分の気持ちをつたえようとは思わなかった。同姓をすきになった自分自身に戸惑ってもいたし、それが異性に対して持つような好意と同じものなのか、正直よくわからなかったからだ。在学中、わたしは何人かの男の人と付き合ったし、まわりのカップルがするようなことをごく自然にしたが、たいてい数ヶ月ともたなかった。
「相変わらず長続きしないのね」
数週間前に恋人と別れたことを伝えると、幼馴染は呆れて言った。デートのたびに切花やプレゼントをくれる、ロマンチックな人だった。告白も恋愛映画のワンシーンみたいに、夜景のきれいなレストランでしてくれた。ラブラドールレトリーバーみたいな、やさしい目をしていた。
「わたしあの人結構すきだったのになあ」
幼馴染は言った。
「わたしもすきだったよ」
わたしが返すと、幼馴染はわたしをきっとにらんだ。薬指をこつこつテーブルに打ちつけるのをやめて、大きくため息をつく。それから、「すきだったらそんな風に別れないでしょうよ」、と続けた。別れを告げられた時、恋人に言われたのだ。「君のことはすきだけど」と、「ずっと一方通行な気がした」と、彼は言った。
それから幼馴染は、美人が蝶よ花よとほめられるのも若いうちだけなのよ、だとか、旦那の友だちを紹介しようか、だとか、表情を忙しく変えながらまくしたてた。昼時を少し過ぎたカフェはほどほどに混んでいて、彼女の少し甲高い声もあまり目立たなかった。
うん、あー、と適当に相槌を打ちつつ聞いていると、幼馴染は気が済んだらしかった。そういうことよ、と勝手にひとりで納得して、ぬるくなったコーヒーに口をつける。苦かったらしく、顔をしかめ、角砂糖をよっつもカップに入れて、かちゃかちゃとかき混ぜた。そして急に手を止めると、ふいに、
「本当はだれか別にすきな人がいたりして」
なにげなくつぶやいたのだった。
それは、彼女が考えていた以上に、核心をついた言葉だったのかもしれない。鏡にうつった、ついさっきまで愛想笑いをはりつけていた自分の顔を見ながら思う。彼らの告白を断る理由がないのと同じように、彼らがわたしともう一緒にいられないと言うのを引き止める理由もなかった。わたしはどの恋人もすきだった。多くの男の人がきれいだとほめてくれたし、そう言って貰えることはうれしかった。まんざらでもない自分もいた。彼らと別れる時に、ぽっかり穴が空いた気持ちがするのも確かだった。しかし、それがいったいなにが抜け落ちたものなのかは、決して誰にも言えなかった。
台所に行き、コップを食器棚から出して、氷をふたつ入れる。それから、コップに水を入れて飲んだ。短く息をはいて、もう一口飲む。テーブルに置くと、氷がからんと音を立てた。試しに「あ」と声を出してみる。のどがやけてしゃがれた声は、自分の声ではないみたいで、思わずわたしは何をやっているんだろうと笑えてきた。殺風景な室内で、テーブルの上、開いたままの招待状に書かれた、不恰好な彼女の字だけがひかっている。水木が結婚するんだ、と思う。
蝶よ花よと。カードを手にとって、はなに近づけてみる。ほんのりとかおったにおいに、幼馴染の言葉が頭の中で響いた。彼女の言葉を借りるなら、わたしは標本になった蝶だ。大切にされて、ずっときれいなままでも、もう花の蜜を吸うことはできない。
幼馴染には黙っていたが、ついこの前、合コンで出会った男の子と帰り道にキスをした。六歳年下で、まだ大学生だと言っていた。恋人と別れてすぐのことだ。ちょうど沿線が同じだし、お酒を飲んだ女性がひとりで帰るのは危ないから、と分かったようなことを言うのが面白くて、わたしは彼の申し出を受けることにした。人懐っこい話し方をして、少し生意気そうなところが水木と似ていた。わたしたちはいろいろ話して、誰もいない駅の改札をふたりで通り、その後になんとなくそうなった。
「今度連絡していい」
別れ際、彼がたずねてきたので、わたしはいいよ、と答えた。
家が近いと言っていたので、いま電話したら、彼は家に来てくれるかもしれない。招待状を手にしたまま、わたしは思う。空いた穴を埋めるために、わたしはきっと彼とキスをする。そしてまた、同じことを繰り返すに違いない。
もう、それでいい。
バッグから携帯を取り出して、わたしは彼の番号を呼び出した。
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